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贈答品 効果 入手先 価格 硝子の折り鶴 贈った相手の理性回復量+1 代理店 32,000g 夫婦の天使像 贈った相手を訪問した時、理性値微量回復 40,000g 百年氷 商人、料理人に贈ると交友値大幅に増加 チルノ -
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ローレンス・ブロック Lawrence Block マット・スカダー・シリーズ 過去からの弔鐘 1976 田口俊樹 冬を怖れた女 1976 田口俊樹 一ドル銀貨の遺言 1977 田口俊樹 暗闇にひと突き 1981 田口俊樹 八百万の死にざま 1982 田口俊樹 聖なる酒場の挽歌 1986 田口俊樹 慈悲深い死 1989 田口俊樹 墓場への切符 1990 田口俊樹 倒錯の舞踏 1991 田口俊樹 獣たちの墓 1992 田口俊樹 死者との誓い 1993 田口俊樹 死者の長い列 1994 田口俊樹 処刑宣告 1996 田口俊樹 皆殺し 1998 田口俊樹 死への祈り 2001 田口俊樹 すべては死にゆく 2006 田口俊樹 償いの報酬 2011 田口俊樹 石を放つとき 2018 田口俊樹 泥棒バーニー・シリーズ 泥棒は選べない 1977 田口俊樹 泥棒はクロゼットの中 1978 田口俊樹 泥棒は詩を口ずさむ 1979 田口俊樹 泥棒は哲学で解決する 1981 田口俊樹 泥棒は抽象画を描く 1983 田口俊樹 泥棒は野球カードを集める 1994 田口俊樹 泥棒はボガートを夢見る 1995 田口俊樹 泥棒は図書室で推理する 1998 田口俊樹 泥棒はライ麦畑で追いかける 2000 田口俊樹 泥棒は深夜に徘徊する 田口俊樹訳 泥棒はスプーンを数える 2013 田口俊樹訳 殺し屋ケラー・シリーズ 殺し屋 1998 田口俊樹 殺しのリスト 2001 田口俊樹 殺しのパレード 2006 田口俊樹 殺し屋 最後の仕事 2008 田口俊樹 殺し屋ケラーの帰郷 2013 田口俊樹 エヴァン・タナー・シリーズ 快盗タナーは眠らない 1966 阿部里美 タナーと謎のナチ老人 阿部里美 ノン・シリーズ 長編 緑のハートをもつ女 1965 田口俊樹 危険な文通 1971 田口俊樹 魔性の落とし子 1980 田口俊樹 真夜中の予言者 1998 田口俊樹 砕かれた街 2002 田口俊樹 ノン・シリーズ 短編集 おかしなこと聞くね 1983 田口俊樹・他訳 バランスが肝心 1998 田口俊樹・他訳 夜明けの光の中に 2000 田口俊樹・他訳 その他 ローレンス・ブロックのベストセラー作家入門 1981 田口俊樹・加賀山卓朗訳
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俺は夢幻街に住むしがないタクシー運転手。 趣味は酔っ払い運転だ。 非常識蔓延るこの街では、人と接する機会が多ければ多いほど死亡率が跳ね上がると聞く。 物騒な話だ。 突然こんな事を言うのはなんだが、俺は人見知りが激しい上に寡黙な人とよく言われるんだ。いやぁ、いつの話だったかは忘れたがとにかく言われていたのだ。 だから酒は、いつでも欠かせない。仕事だって同じだ! 今日も俺はいつものようにお酒を飲んで、いつものように運転している。 酒を飲んで運転をすると何故かいつも後ろの席は人間の内臓のような物で埋め尽くされていたりする。 この前なんか気づいたらミラーが歪んでいたり、他にも何か生き物を轢いたような痕跡が多々発見された。 怖くなった俺はいつもと違って、意識や記憶が残る程度(理性は残らない)に泥酔を決めてみた。 するとどうだろう、俺は客を乗せると同時にこう意識したのだ。『車体よ、灯れ!』すると車体は炎に包まれ、そのままガソリンスタンドへ突っ込んだ。当然爆発したが車体と俺は無傷…客だけが焼け死んでいた。酷く残酷だった。人の死を見るのは初めての筈なのに。どういうことだろう。俺に罪悪感は沸かず、寧ろ溢れ出るテンションが! そう、俺は無能力だと思っていた自分に、とても強力な能力が備わっていることを知った。 酔い運転をすると理性を失う代わりに車を自由自在に変形させ、また俺自身も外部からの攻撃を無効化するような力が備わるのだ…と推測した。推測でしかないが、そんなことは関係ない。この街に来て丁度1年、俺は自分の力に気づいたが今後も酔っ払い運転をやめれる気はしなかった。はて、俺はどこの会社所属のタクシーだったか?俺の帰る家とはどこだっただろうか?日々、俺の理性はこの能力に蝕まれているような気がしてならないが生憎俺は自由だ!どこまでも天翔ける!このタクシーと共に!俺は街のネオンの一つとなるべく綺麗な花火をどこかで咲かせるのだった。 今日も夢幻街は賑やかです。 平和じゃあないかも知れませんがね。
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症状 症状:危険度70% レベル60:ばれ気味 90STR:低い 野蛮人病とは理性が極端に低下した時に発症する病気で主に食べるという行為に出やすく、主に手や口に出ます。野蛮になると、手づかみに近い方法で食べ物を持ちます。ただ、理性がないわけではないで、フォークなどは持てますがグーで持つ、ちゃんと持ててるようで指がなんか変、口はというと味わうという理性は吹き飛んでいるので、口に運んでいたら遅いから口で行こうという無意識的行動で口が尖る。いつもの倍くらい口が開く。7口目までは異常に早いなど、およそ獣でももう少し上品だろうみたいな症状が出てしまう。 足は満腹中枢が刺激されるまで大股開き、そして肩筋が以上に盛り上がることによって首は突き出ます。なので自然と前のめりな姿勢となり食べやすい姿勢ではあります。 関係症例 喉が渇きすぎて学校などの冷水機の水を「うっぅあがはう」って飲んじゃう病 魚肉ソーセージ得意げに歯で喰いちぎる病 番組 第204回 なんであの時放送局 証拠写真
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阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第一部 国家と憲法の基礎理論 第五章 立憲主義の展開 p.71以下 <目次> ■第一節 近代立憲主義の特質[76] (一)近代国家は統治権力を合法的に独占する点に特徴をもつ [77] (ニ)責任政治の原則も近代国家の特徴である [78] (三)近代立憲主義は国民の積極的政治参加に警戒的であった ■第二節 近代立憲主義の人間観・国家観[79] (一)近代立憲主義は理性的な人間像を前提にしていた [80] (二)私的領域といえども国家によって設定され保護されている [81] (三)近代立憲主義は「自己統治」を制約するものについて解答を寄せなかった [82] (四)近代合理主義哲学の礎を提供してきた「理性」は再検討を迫られてくる ■第三節 「現代立憲主義」へ[83] (一)19世紀後半以降の哲学は意思中心主義に批判的である [84] (ニ)「現代立憲主義」は個々人の置かれた地位を振り返る [85] (三)「現代立憲主義」は夜警国家観を超える [86] (四)福祉国家は「隷従への道」? [87] (五)「自由」を尊重する国家は福祉国家とはならないはずである [88] (六)「現代立憲主義」国家は司法国家化によって救われるか [89] (七)夜警国家がもっともユートピアに近いとする理論もある [90] (八)自由でかつ平等な国家を構想するJ. ロールズの国家観が注目されている [91] (九)超越論的な哲学に基づいて「社会的正義」を実現する国家を模索すべきではない [92] (十)現代国家は大量殺戮兵器と癌細胞としての軍隊の統制問題を抱え込む ■ご意見、情報提供 ■第一節 近代立憲主義の特質 [76] (一)近代国家は統治権力を合法的に独占する点に特徴をもつ 近代国家は、 (ア) 統治権力を独占し、集中的な、しかも恒常的な租税体系を基礎とし、 (イ) 中央より指導される常備的軍事力をもち、 (ウ) 行政を専門的官僚の支配という形で組織し、 (エ) 統治領域以外は、社会の自動調整システムが機能するように最小限しか干渉しない、 という特徴を示してきた。 近代立憲主義は、[74]でふれた「法の支配」思想のもとで近代国家の統治権力を形式的な合法的権威に転化させるべく、一般性・抽象性・平等普遍性を満たす立法の制定と、そのもとでの行政。司法という定式を憲法典で実現した。 そうすることによって、リヴェイアサンともなりうる国家から、自由を中心とする基本権を守ろうとした。 すなわち、近代立憲主義とは、基本権保障と権力分立という内容を、正式の法文書という形式で確認する思想をいう。 それは、先に述べた「配分原理」と「組織技術」(分立技術)とを、成文憲法典で確認することと同義である([53]参照)。 [77] (ニ)責任政治の原則も近代国家の特徴である しかし、それだけではない。 近代立憲主義国家においては、統治者が法に対する責任を負うことばかりでなく、政治的にも被治者に対して責任を負うことをも、謳われなければならない。 これを「責任政治の原則」という。 責任政治の原則を具体化するものとしては、大臣責任制、そのための弾劾制度、その後に登場した内閣不信任制度(内閣の連帯責任制)がある。 また、何よりも、選挙制度が忘れられてはならない。 もっとも、これらの責任政治のための制度が、現実の統治過程で有効に機能するとは限らない。 現代立憲国家に登場してきた政党は、責任政治を実質化するために「反応よき統治」(responsive government)を目指すのである。 [78] (三)近代立憲主義は国民の積極的政治参加に警戒的であった では、近代立憲主義は国民の政治参加についてどう見ていたか。 この点に関しては、一方で、近代立憲主義は民主主義と結びついて国民の政治参加に肯定的であったとする見解(芦部『憲法講義ノートⅠ』28頁)と、他方で、近代立憲主義は積極的な国民の政治参加に好意的ではなく、自動制御装置的政治機構を望んだとする見解がある(佐藤幸治編著『憲法Ⅰ』15頁)。 そのうちのどちらが妥当であるか。 その解答はどの国を念頭に置くか、誰の理論をモデルとするかによって、当然異なってくる。 概していえば、理念上は積極的な政治参加が説かれながらも、いざそれを現実に法制化する段になると、統治者たちは慎重な態度に出た。 その理由を理解するためには、近代立憲主義の拠って立つ理念上の人間観・国家観と、現実のそれとの乖離が解明されなければならない。 ■第二節 近代立憲主義の人間観・国家観 [79] (一)近代立憲主義は理性的な人間像を前提にしていた 市民社会は、私的所有または自由意思の主体たる個人の集合体と考えられた。 個人の私的領域の総計が社会的領域と観念されたのである(この見方が、本書の冒頭の [1] でふれた「方法論的集団主義」の典型である)。 「私的領域」とは、いかなる領域をいうか。 また、それをどう評価するか、という争点は、そこに生きる人間への見方によって変動する。 近代立憲主義は、身分制の桎梏から解放された、自由で独立した合理的・理性的個人を想定した。 それは、個々人の示す事実上の違いを捨象した抽象的な人(人格)として捉えられた。 この人間観の発生には、キリスト教、なかでも改革派の説いた、内心または道徳の内面・絶対性、法の外面・形式性という考えが大きく影響している。 中世にあっては、「神の法→自然法→人間の法」という序列が「信仰→(信仰を通して発見される)理性→(理性を具現する法による)利害関心の調整」という序列に対応していたのである。 ところが、宗教改革後、信仰の内面性または多様性が承認された段階で、その対応関係は消滅し、人間社会の利害関心の調整は「(人間に自然に備わっている)理性によって発見される自然法による統制」や「自然法による人為法の統制」という、人の内面とは別個の規準に委ねられるものと再構成された。 その際の基軸は、《人は道徳的で人格的な理性的存在だ》という、人間存在の特質に求められた。 こうした歴史的展開の影響のもとで、人間の合理的で自由な意思を信奉する近代合理主義哲学を基礎として、法学は、「私的領域」を、理性的、道徳的存在としての個人の精神的集合体であると想定してきた。 自然法、自然権思想を支える人間観は、これと無縁ではない。 国家以前の自然状態における個人は、まさにこのような存在として仮定されたのであった。 例えば、ロックの社会契約論は、理性的な決定を為し得る、没社会的な神人同型の個人を前提としていた。 [80] (二)私的領域といえども国家によって設定され保護されている 近代市民法または伝統的法学は、こうした人間観に立って、「公的領域/私的領域」の峻別を説いてきた([4]参照)。 そして、私的領域について国家の不介入や「自由放任」があたかも自明であるかのように扱ってきた。 近代立憲主義国家が消極国家である、といわれてきたのは、こうした意味あいを込めてのことである。 しかしながら、消極的国家または夜警国家のもとですら、国家は、一方で、社会・個人の一定領域を保護してきたのが現実であり(その領域に関してオフ・ハンドでいたことは決してなく)、他方で、権力組織としてその領域を浸食する主体でもあった。 その意味で、個人的領域と政治的領域との分離といわれる場合でも、その分離は、国家内に存在し、国家によって維持されるのである。 その個人的領域は、法のもとでの自由の意味であって、法の欠如でもなければ、「自由放任」でもなかった([54]参照)。 また、「公的(公権力の)領域/私的(市民社会の)領域」という二分法も、社会のある部分をときに「公的」と呼び、経済市場をときに「私的」と呼ぶに至った段階で、相互の浸潤現象を否定しさることも出来ずに、次第に通用力を失っていく。 それは、人間の本性への見方の変容を反映してもいる。 [81] (三)近代立憲主義は「自己統治」を制約するものについて解答を寄せなかった 楽観的人間観に立つ近代立憲主義、なかでも大陸のそれは、国王の権力を制限するための諸理論と手段を発見したものの、人民による「自己統治」(または国民の意思から発するとされる主権)を制約する手段を見出してはいなかった。 有効な制約手段がないために、近代立憲主義は、制憲権を国民の意思の発動とみながら、理念的な国民主権([127]でふれる正当性原理としての国民主権)を説く一方で、実際の統治に当っては、民意を遮断するための諸メカニズム(例えば、代表制、二院制、間接選挙制等)を考案したのである。 さらに、オリュー、デュギーの如く、論者によっては、主権概念自体を否定するものすらみられるのも([8]参照)、主権を統制するものを解明できなかったからである。 近代立憲主義は、人間の本性に対する楽観的な信頼の上に成立していた。 [82] (四)近代合理主義哲学の礎を提供してきた「理性」は再検討を迫られてくる 近代立憲主義を支えた啓蒙思想は、政治または権力とは異なる次元に属するところの理性(またはそれを客観的に具現する正義(イウス))のもとに、政治的利害関心や抗争を従属させ、統制しようとしてきた。 当時、理性は、自然、人、社会を律する客観的な秩序を意味していた。 理性の主体である人は、秩序づけられたこの世界にスッポリと違和感なく収まりきる存在であった。 個々人は、その事実上の違いを捨象されて、普遍的に「人格」として捉えられた。 ところが、国民国家の枠組みが顕著となるにつれて、制度的支えのない普遍的人格を語ることの限界が、G. ヘーゲルによって鋭く突かれた。 人を人格として超越論的に扱うだけでは済まなくなったのである。 この時点で、近代啓蒙思想体系は、一度、打ち砕かれることとなった。 国家と市民社会のなかで生きていく人々の本質的特徴は、行動すること、他者と共同して生活すること、労働すること、消費することにある。 人格として存在することではないのである。 そうなると、法的地位、生産能力、消費量等々、個々人はそれぞれに異なっていることに気づかれてくる。 近代立憲主義の想定する人間観は通用性を失って、再検討を迫られたのである。 こうした再検討のなかで出てくるのが「現代立憲主義」である。 近代立憲主義が中世立憲主義とは異質な様相をもって登場したと同じように、現代立憲主義は近代立憲主義を否定する中で誕生したのである。 現代の憲法理論が近代啓蒙の時代に安閑と依拠してはおれない理由は、ここにある。 ■第三節 「現代立憲主義」へ [83] (一)19世紀後半以降の哲学は意思中心主義に批判的である 19世紀後半以降のマルクス主義と労働者階級の勃興は、近代合理主義哲学が説いてきた意思中心主義、個人(主体)主義への反省を迫った。 それは具体的には、 ① 個人的意思の集積の結果、実体として出現するといわれる一般意思への批判と、それを支える社会契約論への批判(これらは階級対立を隠す)、 ② 社会に存在する中間団体の見直し、 ③ 人々の身分・利害の多様性と、法の多元性との承認 という方向として表れる。 この方向は、人間存在や法の見方のみならず、国家の見方までの変更を思想家に迫らざるを得なかった。 近代国家を法的に統制しようとして出てきた近代立憲主義は、この変容を一部取り込みながらもその根幹を維持しようとするが、様々な課題・矛盾を背負い込んで、様々な変更を余儀なくされる。 [11] でふれた「現代国家」の実相に応じて変容されてきつつある立憲主義を「現代立憲主義」という。 [84] (ニ)「現代立憲主義」は個々人の置かれた地位を振り返る 「現代立憲主義」は、理性的でもあるが、同時に、私利私欲をもった経済的に合理的な人間像を反映したものとなってくる。 この時点で、客観的な秩序を意味していた理性は、目的に対する手段の適合性を判断する主観的能力を意味するものに確実に変わった。 それは、道徳的実践理性よりも、道具的理性を優先させる人間像への転換を承認することでもあった。 中でも「現代立憲主義」は、個々人の置かれた具体的な生活の状況を考慮しながら、経済的自由市場がもたらす経済上の恐怖や脅迫から市民を「自由」にすべく、国家による非干渉経済を一部断念するのである。 国家の市場介入を容認するために、「弱肉強食」という根拠のない表現が乱発された。 [85] (三)「現代立憲主義」は夜警国家観を超える 現代国家は、人間の私利私欲から発生する弊害を予防または除去し、各人の生存に配慮するために、「公共政策」の名のもとに、財・サーヴィスの供給者、規制者、創造者(企業家)、またさらには審判者として、「社会的領域」に進出し、各人が幸福となるための条件を各人に約束し始める([11]をみよ)。 それが、「社会的法治国家」、「積極国家」または「福祉国家」と通称される国家である。 それは、既にふれたフランス啓蒙思想の影響である([54]での【N. B. 9】参照)。 現代国家は、権力組織としての顔と、実質的平等・実体的正義の実現や、さらには結果の平等までをも意識して国民の生存を配慮することなどといった高次の目的にも仕える二つの顔をもつ(現代国家の特徴については、[11]でふれた)。 こうした変化は、自由権のうちでも経済的自由権を変質させて相対化し、人権論のなかでは、象徴的(スローガン風)に、「自由権から社会権へ」といわれ、国家論のなかでは、「夜警国家から社会(福祉)国家へ」といわれる中にみられる。 なかでも、その国家における行政の特徴は、生存配慮のために為される社会保障行政に表れる。 [86] (四)福祉国家は「隷従への道」? 片や権力を独占し、片や各人に幸福を約束するという二つの顔をもつ国家の統治は、余剰権力を発生させ、パターナリズムのもとで、各人の自由領域に干渉し、ほとんど全ての領域を政治領域としそうな勢いを示している。 それは、あるいは我々が既にハイエクの最も警戒する「隷従への道」を歩んでいることを示唆しているのかも知れない。 なぜなら、不平等を是正して幸福を各人にもたらすために提唱される「分配的正義」(社会保障に代表される所得再分配)は、国家が人々の置かれる位置まで決定し監視せざるを得なくさせるからである。 そのための国家権限は、我々が自由な営為のなかで獲得した地位をパターン付き社会に適合させるべく、我々の為すべきことまで決定する権限ともなろう。 こうした危機を目前にして、ハイエクは、「法の支配は、配分的正義を排除する」といい、Th. ローウィは、明確な基準を欠く所得再分配(福祉行政)は、官僚と一定集団とが癒着する利益集団自由主義を生むといい、M. フリードマンは、財産権の侵害であるといい、R. ノージックは「道徳的に正当化され得ない国家となる」という。 この病理に対処するために、全ての行政活動に法律の留保を求める「全部留保説」が唱えられるものの、それは、かえって社会領域の政治化を呼ぶばかりでなく、無数の委任立法に拠らざるを得ないこととなろう。 配分的正義を実現するために説かれてきた「現代立憲主義」国家像は、かくて、脆弱な姿を露呈することになる(その最も強力な擁護論は、すぐ後にふれるJ. ロールズの政治哲学であるが、それとても弱点がない訳ではない)。 [87] (五)「自由」を尊重する国家は福祉国家とはならないはずである 「自由」とは、強制の加えられることのない状況下で、各人が各人の望むところを各自の知識に従って追求するチャンスを与えられていることである。 知識の程度と範囲は人によって異なり、その活用の程度もまた各人の機会が異なるために、違ってこざるを得ない。 その結果、各自の生み出すもの、獲得するものに相違が出てくるのも当然である(「生産」と「分配」は対応する)。 「自由」は、「機会の平等」とは両立するものの、生産と分配との区別を前提とする「結果の平等」とは両立しない。 となれば、「自由」を尊重することは、結果の平等を志向する福祉国家理念とは、基本的に、相容れないばかりであんく、結果を予め計画して、それへの邁進を目指す共産主義とも対立する(この点については『憲法理論Ⅱ』 [135]~[137]、『憲法理論Ⅲ』 [415]~[416] をみよ)。 自由主義のもとでは、成果を発生させる過程での各人の努力は、国家によって評価されてはならないのである。 [88] (六)「現代立憲主義」国家は司法国家化によって救われるか 代表機関としての議会に信頼を寄せた近代立憲主義に対して、「現代立憲主義」は、不断に活動する執政府に頼らざるを得なくなる。 執政府は、法令の執行に携わるだけでなく、委任立法に従事し、さらには、国家の基本政策の形成・実行・検証のみならず、社会領域における自動調整システムの機能不全に対処すべく、計画・統制へと乗り出してくる。 それは、それだけの自由裁量的権限と機構とを備える「行政国家」への変質を意味する(古典的な意味での「行政国家」とは、執政権行使が司法裁判所の統制から除外される国家を指した)。 ところが、「自らが公共善とみなすものに専ら関わる効率的な専門行政官が、自由に対する最大の脅威となる」(ハイエク)。 その脅威を最小化するために、執政府活動に対する司法的統制が期待されてくる。 「司法国家」への変質の要請である。 その際、執政府の活動も通常裁判所の判断に服するという「法の支配」理念が再び強調されることになる。 また、議会が、法律で独立行政委員会を設置するのも、執政府を統制するための対応である(後述の[405]参照)。 しかしながら、肥大する執政府を前にして、議会や司法がその統制に成功しているとは思われない。 特に補助金の交付にみられる資金助成行政は、特定目的をもって、特定人(法人を含む)を対象として為される私的・個別的契約であると理論構成されるために、一般的抽象的ルールのもとに執政府を置こうとする近代立憲主義または法の支配の思想から大きく逸脱する。 近時、ノージックのように、福祉国家観に正面から反対する自由尊重主義者が夜警国家への回帰を提唱しているのは、この点を真剣に懸念しているからである。 [89] (七)夜警国家がもっともユートピアに近いとする理論もある ノージックは、各人が「獲得、移転または匡正」という経緯を通して得た物(自らが作り出した物、他人から譲渡されて得た物、そして他人からの賠償によって得た物)は各人の物であって、各人はそれに対して正当な権原(entitlement=自然権としての資格)を有し、何人もそれを侵さないことが正義である、という(権原の正義論または経緯の正義論。巻末の人名解説をみよ)。 この正義論は、正義や人権を達成されるべき国家目標とみないで、国家権力を制約する原理(横から制約する原理)と考えている点に特徴がある。 権原の正義論は、彼のいう最小限国家、つまり警察国家だけを正当とし、彼のいう拡張国家、つまり福祉国家を道徳的に正当とはしない。 なぜなら、拡張国家は、所得再配分によって個人の「権原」を侵害するからである。 以上のようなノージックの理論は、すこぶる評判が悪い。 例えば、「大きな権原」(持てる者)と「小さな権原」(持たざる者)との差は、権力関係を反映したものとなって、自発的な獲得・移転等といわれるものを歪めるのではないか、さらには、貧富の差をさらに拡大し、いわゆる「社会的正義」に反しないか、と強い批判に晒されている。 彼の理論からすれば、自由尊重主義は、必然的に、自由経済体制(資本主義)擁護のための理論となることになろうが、巨大法人(組織)によって支配されたように見える市場システムの評価の仕方によって、その理論の是非が決定されよう(「市場/組織」の二分法がどこまで通用するか疑問である)。 その是非はともかく、ノージック理論は現代国家の実態に対して痛烈な批判となっている。 [90] (八)自由でかつ平等な国家を構想するJ. ロールズの国家観が注目されている ロールズの国家観は、最近の政治哲学のうちでも、最も強い影響力を各方面に与えてきている(巻末の人名解説をみよ)。 彼の理論は、ノージックとは正反対に、自由と平等(なかでも「結果の平等」)との調整が可能であることを説きながら、国家による所得再分配を、「公正としての正義」の名のもとで、次のような思考順序で正当とする理論である。 ① 合理的に思考し、行動できる人々であれば、個々人でいるよりも社会を形成して協働による利益を増加させるほうが善いと考えるであろう。 ② しかし、誰もがフリー・ライダー(ただ乗りする人)に成りたいと考えるに違いない。すなわち、彼らの中で利害が対立するのは、社会的協働に必要な費用の分配と、社会的協働の成果である利益をどのように分配したら良いか、という点である。 ③ そこで、各自の置かれた状況についても、選択の結果についても、誰も何も知らない「無知のヴェール」のもとに万人が置かれたと仮定しよう。そのもとでは、万人は最悪の選択が最善となる(予想される損失を最小化する maximin rule のもとで)、次の原理を選ぶであろう。 《正義の第一原理》=各人は、万人のための同様の自由の体系と両立する限りで、平等な基本的自由の最も広範な全体系に対する平等な権利を有すべきである、とする原理(最大の平等な自由の原理)。 《正義の第ニ原理》=社会的および経済的不平等は、次の二条件を満たした場合にのみ許されるとする原理。第一に、不平等は地位や役職に付随したものでなければならないこと(機会の平等)、第二に、不平等は社会構成員のうち最も恵まれない人にとって最大の利益となるべきであること(格差原理)。 以上の原理には、第一に自由を、第二に機会の平等を、第三に格差原理を、という優先順位が想定されている。 [91] (九)超越論的な哲学に基づいて「社会的正義」を実現する国家を模索すべきではない このロールズの見解に対しては、「無知のヴェール」のもとで人々が二つの正義原理を選択するという保証があるか、余りに理念的な人間像を前提としていないか(「記憶喪失の哲学」と批判される理由はそこにある)、といった疑問が残る。 彼の哲学は、非経験的な知によって人間の本性を把握しようとする超越論的哲学から離れようとしながらも、その枠内にとどまっている。 政治哲学の出発点は、現実的なありのままの人間でなければならないはずである。 ありのままの人間から法や国家をみるという視点は、スコットランドの啓蒙知の伝統にみられる。 その知によれば、共に自由に生きたいという一般の人々の願望を実現するために、一般的・抽象的ルールを提供し維持することこそ、国家の存在理由なのである([28]参照)。 確かに、現代立憲国家は、近代立憲国家における「社会」がもたらしたといわれる様々な弊害を、人為的で個別的なルールによって除去し、「社会的正義」を実現しようとして登場した。 しかしながら、社会は、一般的・抽象的ルールのもとで各人が自由に行為するよう保障した結果として自生的に登場する秩序である、と考えるのが正しい。 その秩序に対して「社会が責任を持たなければならない」と主張することはナンセンスである。 「正義」なる観念は人間の行為についてのみ問われなければならない。 社会は、個々人の自由な営為の結果として生まれ出た秩序であって《主体ではない》のである。 「社会的正義」の名のもとで、巨大な官僚の監視機構を背景にして、強制的に所得再分配をしようとする国家こそ、社会的正義を破壊しているのである。 これこそが、現代立憲主義国家の病理である。 その病理は、国家が個人の私的領域に介入する「国家の社会化」に現れるだけでなく、利益の分配を巡って利益集団が政治過程へと深く侵入する「社会の国家化」によって、さらに深刻化する。 近代立憲主義を人間の意図(設計主義)によって修正し、「社会的正義」を追求し実現しようとする「現代立憲主義」には大きな期待はかけられない。 [92] (十)現代国家は大量殺戮兵器と癌細胞としての軍隊の統制問題を抱え込む 現代国家の病理はそれだけではない。 大量殺人兵器の登場、秘密事項で武装された軍隊の存在は、国内国外の平和をいかに実現するか、「開かれた政府」をいかにして貫徹するか、という問題を「現代立憲主義」に突きつけて久しい。 これに対応すべく諸国家は、侵略戦争の放棄を憲法典上で謳い、民主的統治の理念に立って情報公開制度を実現しつつある。 なかでも、「現代立憲主義」は、20世紀になって、政治と軍隊との関係(civil-military relations=軍政関係または民軍関係)について、具体的な解決策を迫られる。 というのは、政治が、軍隊という機能集団を管理する専門技術・知識・装置を修得すべしとされて以来、法制度上、専門職業的将校団を看過するとなれば、軍隊こそ典型的な暴力機構であるだけに、国民の自由やときには民主制にとって最大の危機と成り得るからである。 専門職業的将校団を、法的に有効に統制しようとする試みが、文民の優勢の体制(civilian control=一般には「文民統制」と訳出されている)である。 もっとも、文民統制なる用語も極めて多義的である。 それは広義には、非軍人を意味する文民の政治的指導によって軍隊を効果的に管理することをいう。 その広義の文民統制のもとでは、将校団は軍事面だけの専門的知識を文民たる政治家に助言するにとどまるよう、政治的中立の枠内に閉じ込められる(「政治家が戦争目的を決定し、軍隊は戦争に勝利することを目的とする」といわれる)。 狭義の文民統制とは、軍隊の最高司令官が非軍人であることを指す(これに対して、日本国憲法にいう「文民統制」は、特異な内容と狙いを持つ。通常いわれる「文民統制」は、広義であれ、狭義であれ、軍隊または将校団の存在を所与のものとして、それをいかに有効に管理するかのやり方を示した。ところが、正規軍を持たないはずの日本国憲法にあっては、「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。」と定められているため、その趣旨を巡って論争されることになる。この点は周知のように、文民とは、職業軍人の経歴を持たない者をいうとする説、職業軍人の経歴を有し、しかも強い軍国主義思想の持ち主である者以外をいうとする説の二説が対立していた。ところが、自衛隊が設置されて以降、文民とは現役軍人以外の者をいうとする説が登場するに至る)。 こうした努力にも係わらず、主権国家の独立性や平和の確保が最終的には武力によってもたらされる、という冷厳な国際政治の現実は、これまでと同様、不動のようにみえる。 この現実を前に、現代立憲主義が、「平和国家」や「開かれた政府」に向かいつつあるか否か、定かではない。 軍事秘密によって武装されて肥大する軍隊をみれば、夜警国家が最小国家である、とは必ずしも言い得ないのである。 現代国家の病理は国家機構の肥大に象徴的に現れるが、その病巣は政策遂行のために使用される手段にある。 それが、無数の、個別立法ともいうべき、無数の人為法の制定である。 現代立憲主義は、「社会的正義」を即効的にもたらそうと、ときに、所得の再分配のための立法、ときに、需給調整のための立法、ときに、「社会的弱者保護」のための立法等々、望ましい社会秩序実現のための法制定を「公益」の美名のもとで要請してきた。 そればかりでなく、無数の個別立法をきめ細かくし執行するための行政機関の肥大をもたらしてきた。 実は、「社会的正義」、「公益」なる抽象的概念に客観的判定基準はない。 また、現実の政治過程での最終決定因は、正義という理念ではなく、利得である。 そのために、利益集団が民主主義過程に食い込み、一般性・抽象性・平等普遍性という法の属性から自分だけ免除するよう求めてくるのである。 それは、自由経済体制がもたらす「市場の失敗」よりも、是正困難な「政策立案過程での失敗、立法の失敗、執行の失敗」をもたらさずには置かないのである。 【表7】「現代立憲主義」の課題 ① 実体的正義または「社会的正義」を実現すること ② 肥大化してきた執政府活動を司法的に統制したり、「開かれた政府」を実現すること ③ 軍隊に対する文民優位の体制を確立すること。 ■ご意見、情報提供 ※全体目次は阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)へ。 名前 コメント
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“影の”カリスト 記憶喪失の男。中二的な意味で、もとい、ハイラン的な意味で、もとい、呪文的な意味で。 最終戦争が終結した後、どこからともなくシャーンにやってきてカニス氏族の下働きをしていた。そのうちにサイオニック能力を見止められ、リアル大学で言う助手くらいの地位に取り立てられる。最低限の読み書きは(中二的な意味で)できたが、学を得るためにモルグレイヴ大学に通わされていた。現在は夏休みとかじゃないのかなあ。じゃないとそろそろ単位の心配とかをする。単位数はともかく必修科目ががががが。 権力を欲する人格を持つが地位名声に興味はなく、暗部からの掌握を好むクロマク。表に出すことはないがカリスマの性質がある。 手段としての地位を得る過程で大学副総監殺人に遭遇。国際テロリストとの確執、カニス氏族の有力者らしき人物とのコネを持つにいたる。目下、イレギュラー要素を修正するのではなく利用することによりプランの短縮を図っている。 ヴォルの血:失われたドラゴンマークとやらには興味あり。 翡翠爪騎士団:「障害」。 ウォーフォージド:機械的に制御不能の人造。だが意思を持つ生物として「制御」すればいいだけのこと。が、面倒なのであまり面白くない。 ヴァンパイア:一刻も早くデカンター・オヴ・エンドレス・ウォーターを買う作業に戻るんだ。 コネPC名 コネのスート ペルソナ エリジャ・ド=カニス 理性・外界 あ、ありのまま(ry。ドラゴンマーク氏族の有権者と思っていたらいつの間にか地位がなくなっててしかもドワーフになっていた。な、何を(ry。権力志向が強くかつ実力も備えているので将来有望。搦め手・裏工作は私がやっておくとしましょう。 ガガガ 外界 表情が読めなくて面倒かつ少し不気味だが、カナモノを与えておけば比較的御しやすい。ただし生物分類に似合わず理知的であることに注意。 コヌヤワ 理性(逆)・外界 まさに暴走した人造。ただ鉄砲玉としては非常に優秀だったため、破壊されたのは残念。 510501 理性(逆)・外界 行動に不審な点が多々見受けられるため、常に気を配っておく。能力的には有用。ロボトミーしたい。 ラーミア 外界 ゼミの仲間。将来的に長じる可能性が高いアーティフィサーなのでパイプを太くしておきたい。 ハルダミア 外界 忘れた ヅァーシアナ 外界 忘れた リサ 外界 掘り出し物。 インスパ 外界 雇い主のボディーガード。腕は立つらしいが人格は未知数。
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名前 ヘレナ(Helena) PL みふね◆mlFisQKqR. 年齢 22歳 性別 女性 職業 市民 人種 シバ人 能力値 武勇 機敏 精神 備考:装備ルール第四版 基本値 7 1 1 (自由振り分け) 攻撃力 13 1 1 属性 切/地 武勇攻撃の最終ダメージ+1 「スタン攻撃」使用:達成値+1 防御力 8 1 1 HP 20 スキル 常備 鉄腕(*1) 消費 スタン攻撃(*2)商談(*3) 経験点 5(5) 参加回 公式25回「寒中水泳だと思ったらご覧のありさまだよ!」 装備品 武器 ネル印の戦斧 20000G 3 0 0 切「スタン攻撃」使用:達成値+1 (宝石『アルジェネス(*4)』を装着 鎧 日輪国の服 5000G 1 0 0 攻撃/武勇+1 装飾品 チャンピオンベルト 20000G 武勇攻撃の最終ダメージ+1 精神攻撃-1伝説の夜種のチャンピオンから進呈されたベルト。(本物)と書いてある。歴代のチャンピオンの血と汗と涙がしみこんでいて、いい香りがする。 技能書 「商人の技能書」5000G 市場知識 物品鑑定 (*5)倉庫に眠っていた売れ残りの魔法書 地+1 所持品 消耗品 イシヤで買った傷薬(1d6+2/買値1000G) フレーバー 実家の商品カタログ 所持金 2000G 累計所持金 56000G NPC利用 可 二次創作 可 外見 金髪碧眼、外はねの肩にかからないボブカットで、服装はシャツとサロペットスカートに革手袋とブーツ。 口調 一人称 私 三人称 さん付け、お客様、肩書きに様付け 備考 基本的にバイト敬語で明るく、少々やかましいかも知れないセッションより↓「いいですよ海、焼きそばと飲み物だけでちょっとしたお小遣……綺麗ですよ海」「いらっしゃいませこんにちはー、こちらの馬車はイシヤ行きになりまーす」 設定 町の隅っこで営業している雑貨屋の店員。薬師の祖父が店長です。信仰神はキューグ。常連客のツケの返済が最近貯まらなくなってきたので、冒険者は儲かるのかと好奇心で顔を出してみました。 (その客が強そうには見えなかったため、この人に出来るなら自分にも出来ると思った事もあり)結果、思ったより儲かった上に交通費や滞在費も依頼人持ちという事に味を占め、また家族の目を盗んで冒険者に混ざろうかと企み中。 実家について 正式名称:ダニエルの雑貨屋Cで買える薬や1500Gまでのアイテムルール消耗品などを売っています。 +参加回一覧 ◆ 第二十五回 「寒中水泳だと思ったらご覧のありさまだよ!」 アルバ デュオット コモモ レージル ヘレナ ◇第173回「あおさんの」 ラ・マイア カイン ストレリチア ロゼ ヘレナ +■同PLキャラリスト (みふね◆mlFisQKqR.) ヴィエリ カエデ アズリ カミラ ロイス モニカ ヘレナ タンタル アルヴィス ファイナ イツキ PL以外からのコメント コメント
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11月14日 読書会レジュメ お題 「プラネテス」(作:幸村誠 講談社) 1.周辺情報 単行本は1巻から3巻までで以下続刊。昨年度の星雲賞コミック部門を受賞。 お仕事:ハヤカワ等で装画をやっています。マガジン2001年2月号表紙。マンガとしてはクイックジャパンVol.41に5pの短編。 本作がデビュー作。守村大(もりむらしん)の元アシ。宇宙作家クラブ所属。 連載は不定期に掲載中。話数的にはもうすぐ4巻が出そうだということです。 作者インタビュー(この方のインタビューはどこでも同じ様な事しかしゃべってないですが) http //www.nasda.go.jp/lib/nasda-news/2002/02/hito_j.html http //www.manga-g.co.jp/interview/int02-09.htm タイトルは、ギリシア語の男性名詞plane^tes「彷徨う者,放浪者」の複数形,主格/呼格。 古典ギリシア語の段階で既に「惑星」の用例もある。 この語の語源は動詞plazo^「ふらふら彷徨う,放浪する」で, 他の派生形に形容詞plagktosの中性形plagktonが「プランクトン」になった。 2.作品について 初めてモーニングで読んだときの衝撃は、いまでも忘れることが出来ません。その後これだけ待たされることになろうとは。 鶴田謙二といい士郎正宗といい… ○作品の一つの柱であるハチマキの内省のついて(以下単なる数字はphaseの意) 1 では「何故ここにいるのか?」という問い(と言うほどでもない) 2 「誰にでも無慈悲な宇宙」を自分はどう受け入れるか 4 「ここも宇宙」とはいっても「追いつく」対象。九は昔のユーリ。 5 本格的にハチマキ悩み始める 対話相手は宇宙服を着た自分 宇宙船を手に入れるという自身の夢。無理かもしれないけど見続ければよし。 6 人類の夢なんて「つまらん」by親父 ロックスミスの夢は個人的。選べもう一度! 「大きな物語」の終焉とか、『2001夜物語』と読み比べてみてもいいかもしれない。 7 タナベ ハチマキの夢に他者が混ざりこんでくる 8 またも宇宙服 ただ「全部オレのもんだ」と言っている割には毎晩丸くなっている。 9 ロックスミスの目→他者を踏みつけてでも自分の夢を叶える決意がついた(孤独に耐えられるようになったことも含む?) ところが最後にタナベが出てきておかしいことになる。 おそらく 共同幻想 個人的妄想 「無垢な子供」→8でのハチマキ→ロックスミスor →親父,タナベ 10 レオーノフ(決心した人間)挫折→個人だけの夢の破綻。しかも何故かタナベに助けてもらう。 宇宙服野郎は、自分を守る為のものであった→一人で夢を叶えようとすることの孤独さを再確認させつつも紛らわせていた。 ここも宇宙の筈なのに生きて帰ることが必要。(※)3巻の展開を暗示していなくもない。 他者を必要としている→タナベであるとほぼ明示されている。 こうなるなら、どうして5や8であんなことを言っていたのかという矛盾。 12 傷を負ったネコ 完全体のネコは死や孤独。3巻はそこからの逃走劇。 13 タナベにとって宇宙は「宇・宙」。女のカンは男の理性に勝っている。 14 その説明 15 どこも宇宙しかし地球へは家族が必要。(※) 16 「ロケットは哀しいだって一人だから」 まとめ 宇宙とはこの世界のすべてであり特殊な空間ではないということ 「自分の」夢を叶えよう ただし孤独では無理なので、家族が必要。 3巻の一連の話が載ったとき柱コメントで「分かってしまいました」みたいなことを作者が言っていました。 餓死しそうにはならなくても、ハチマキと似たようなことをしていたのでしょうか。2巻の裏そでも参照。 当初は「一人で木星行ってやる」だったのが、日和って「タナベがいないとだめなんだ」となってしまったところに個人的には違和感を覚えてしまう。 まあ、極めて日本的な母性主義みたいなものかと諦観してみます。「はしかみたいなもん」。 マンガとして ・phase10のロシア語 タイトル СПАСИБО ありがとう p211 「ホシノさんですね? 息子からうかがいました」「わたしはレオーノフの母です」 p222「息子を運んでくださったそうですね。息子がここにいるのはあなたのおかげです」 「ありがとう」 「本当にどうもありがとうございました」 「ありがとう」 上質紙(値段がちょい高い) 絵の変遷 特に1、2、3 おまけに3巻169p あと16のハチマキの目が怖いです 幻視の演出 2、4、10 extra 最高です。「野球・SF・タイガース」。私的には究極の「燃え」です。 SF デブリ回収業の考察 もうかるのか? 地雷除去とはまた違ってくる筈。 減圧症 窒素の気化 コカ・コーラhttp //www004.upp.so-net.ne.jp/diving/gen-to-dcs.htm 生理学的(数学的)に記述できるほどには分かってないらしい。 急性放射線障碍 1Gyとは、1kg当たり1Jのエネルギーを吸収したときの線量 分子死 ≧1000Gy ②中枢神経死 100~1000Gy ③腸死 10~100Gy ④骨髄死 10~4Gy ここまでは致死的 ⑤亜致死線量での急性放射線症 1.5~4Gy ⑥検査値に異常 0.5~1.5Gy 約40日間の宇宙飛行における集積線量は10~21mGy。 被曝線量についてはここでhttp //soejima.to/boards/cb.cgi?room=mail page=15 途中で出てくるグローバライゼーションについて。 「キリンヤガ」、「沈黙の春」あたりを読んでみて下さい。 タンデム・ミラー方式 原子力百科事典を参照のこと http //mext-atm.jst.go.jp/atomica/ サーキット・コイル型 ヘリカル型のこと? エネルギー ヘリウム3 核融合 3Heは太陽で作られて太陽風として月に行き、砂に吸着する形で存在している。 3Heを1トン取り出そうとすると、月の砂は10万トン必要になる。日本の年間消費電力を賄う為には、砂を毎日3000トン近くも処理する必要がある。(技術的なブレイクスルーが必要) D+T→He(3.5 MeV) +n(14.1 MeV) D+D→T(1 MeV)+p(3 MeV) 3He(0.8 MeV)+p(3 MeV) D+3He→p(3.7 MeV)+4He(14.7 MeV) デブリの衝突によるエネルギー 「デブリが衝突する時の速度は、平均で秒速十キロ程度と考えられています。ライフル銃を撃った直後の弾丸が秒速一キロ程度ですから、その十倍。直径三ミリのアルミのデブリでも、秒速十キロでぶつかれば、ボーリングのボールが時速百キロでぶつかるのと同じ衝撃 があります。」だそうです。 「プラネテス」「度胸星」「ふたつのスピカ」「MLM」「まっすぐ天へ」「ソラリウム」「ムーン・ロスト」等最近の宇宙マンガに関する随想。 おそらく抜けがあるでしょうし、そのへんは勘弁ということで。 内容はスポコン、アドベンチャー、ファンタジー風味からサラリーマンまで多種多様。 多分、今の時代だから描けると言えるのは、サラリーマン的というか、本当に地に足付いてる「MLM」と「まっすぐ天へ」ぐらいではないかと思われます。現実では、政府はやる気ないし、技術的なところでも、中国に抜かれてるっぽいし。 新展開が無い以上、世相を反映して出てきたとされてる、「ゼロの波の新人」みたいなのは、 この分野には、なかなか出てきそうにないわけで。 あ、唯一の例外に吉川良太郎がいますが。まあいいや。 個人的には、夜寝る前に気楽に読めるエンターテイメントとして、一定の新作がでていれば文句はないです。 多分「宇宙属性」を持っているので。 そういえば、「分析を始めてしまえばソレマデです」なんてことを西尾維新が「きみとぼく」のあとがきで書いてましたっけ。 読書会にて出ていた意見 プロポーズのしりとりは上手い(ラブコメ)。 1巻p17のロックスミスは平野耕太っぽい。 未来の商店街がたいして今と変わっていない。 100年後のポルノはもっと細分化されて、フェティッシュだろう。Hustlerがまだ残っている。 タナベの父親のは、ロックではなくメタルではないか? 全体的な感想 絵がきれいなので入って行きやすい。ビルディングスロマンとしてよく出来ている。 作品世界に入りやすい。人間ドラマが面白い。 今後、タナベとの別離を期待。 宇宙はどうでもいい。行きたきゃ行けば。 宇宙には何も無いのに何故行くのか。 ←フロイト的メタファーとして 新大陸へ 刷り込み 2019.02.24 Yahoo!ジオシティーズより移行 http //www.geocities.jp/tohoku_sf/dokushokai/planetes.html なお、内容は執筆当時を反映し古い情報・元執筆者の偏見に基づいていることがあります by ちゃあしう
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INFPの青年期における課題は、 第二の心理機能である 外向的直観(Ne) と第三の心理機能である 内向的感覚(Si) のバランスを取ることにあります。 ふと沸き起こる想像や新しい可能性に興奮し身を委ねるか、 それとも、その場の思いつきに流されることなく、 一度取り組み始めたことに集中して脇道に逸れることなく粘り強く行うか。 その間で葛藤が生じます。 これら二つの心理機能のどちらが優位に働くのか、 それは時と場合によって違ってきます。 はじめから、両方共、うまく統合させて働かすことはできません。 その場その場で、うまく使い分けることになります。 概ね外向的直観の方がよく働きますが、 一人でいるときや内省的なときは、 内向的感覚の方がよく働くことになるでしょう。 どちらか一方の働きが強くなりすぎて、その良くない面が影響してしまうことがあります。 実際は、この二つの心理機能はバランスを保って共同して働かせることで、統一した認識に至ります。 外向的直観の働きによって、様々なことに興味を持ち、幅広く可能性を探索しようとします。 好奇心に身を委ねて行動し、新しい発見があっては、感動します。 想像力豊かでチャレンジングな態度を取ります。 結論に至ろうとするよりは、様々な角度から物を見ようとします。 議論や遊び心を大切にします。 INFPは、物質的な欲求よりも、精神的な深みに達することに貪欲です。 人間や社会、自然やその他複雑な物事における意味やつながりを理解することに興奮します。 しかし、物事の詳細をしっかりと記憶し、現実的に捉えることが難しくなります。 注意が散漫になり、地に足をつけていないと受け取られることがあります。 無邪気な遊び心を衝動的に表現することがあるので、子供っぽいと思われることがあります。 そういった思いは、必ずしも他者に理解されるものではありません。 両方の立場から考え、両方正しいなどといった日和見の意見で 自分の見解を明確に打ち立てることができず、腑に落ちないことがあります。 紆余曲折と様々な失敗を経た後、 じっくり腰を落ち着かせて物事に集中し取り組むことの 大切さに気がつくようになります。 細やかなところまで注意することで、完成度の高い仕事を成し遂げることができ、 自分の情熱も創造的なアイデアも現実のものとなるのです。 ただ単に知識を詰め込むことは味気ないと思いますが、 多くの知識を取り入れることで、ひらめきの信頼度は上がってゆくのも事実です。 日常的なことにはあまり興味が持てない傾向があります。 どうでも良いと思っていることについては頑固に今までのやり方に固執します。 例えば、着るものなどは愛着を感じ馴染んだものをそれとなく続け、変化を好みません。 他の人からみると質素であるように見えるかもしれません。 ときに挑戦的に、ときに腰を落ち着けて、物事に取り組んでゆくようになります。 INFP自身は周囲の環境や自分の身体に鈍感なところがあるのですが、 他者の面倒を見ようとするならば、そういったことに敏感になる必要があります。 お腹が空いているのか、寒がっているのか、何を必要としているのか、 他者よりも早めに気がついて対処することができれば、 相手は心地よく感じることができるでしょう。
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RS-272 ファイブレッド Sユニット パワー1 CN5 BP3000 SP! ノーマルレア 追加条件 【Vソード】SP1 レッド/男 アーステクノロジー 地球戦隊ファイブマン フレーバーテキスト そして、最後まで人間の理性と知性を信じ、諦めない勇気を持つこと! 備考・解説 イラスト Masakazu Fukuda 収録エクスパンション 第5弾自販機&パック&スターター 関連カード RS-373 ファイブレッドFT Q&A Q: A: